2009年3月29日日曜日

San Juan移住地

Santa Cruzに来て、久しぶりに半袖で外出可能となる。 助手の頭痛も完治し、また通常の食欲を見せている。 この街は、地図で見る限り、中心の24 de Setptiembre広場を中心に、それをぐるりと取り囲むような形の環状線の道路が何本も描かれていて面白い。 Primero anillo, Segundo anillo,という具合で慣れると我々外国人には大変便利。 迷っても一回りすれば、元に戻る。 空も湿気を帯びた空模様で、案の定、短時間ながら時々雨に会う。  今はもう雨季の終わりなるも、やはりここの人達の話も気候の異変を口にしている。 話に聞いていたSan Juan日本人移住地を訪ねることにした。 日本にいる大学時代の友人が少年期ここで過ごしたとい言うMailを受け取り、彼の友人O氏を訪ねて欲しいと。Monteiro, San Carlos, Santa Feそして、San Juan。 片道約130kmの道路は、昨日とは打って変わってすこぶる良い。 しかし、残念ながら、O氏30年ぐらい前から日本に行ってしまい音信不通。一番近い町、Santa Feは、もちろん昔故現在の様相とは違うであろうが、移住地内にお店などない時代は、言葉も不自由な我が同胞がこの辺を買物で行きかっていた姿を想像すると感無量になる。 近郊には立派な住宅もある。 生憎、日曜のため、移住地の中心街は、閑散としており、話し相手と
なりそうな日本人の姿もなかった。 看板から日本食のレストランが3件ほどある。 明日は、BRに向かうが、今日のこちらの新聞では、通行不能と報じている。 かなり遠隔になるCuiabaに抜けるSan Matiasに向かうしか手がないのか。 予定のPuerto Suarez方面へ運行しているバス会社を訪ね情報を貰いに行った。 そこの切符売りが「問題ない」と。 「しかし、今日の新聞には通行不能と書いてある」と私。 「そんなことない。ウチの今日のバスはもう出た」と彼。 「見ろ。今出て行くバスは、もう一社のバス」とその相棒。 ここから650kmもあり、はたして彼らの言葉を信じて良いのか。 バスの切符を売ってしまえば、もうどうでもイイと考えているのでは。 いずれにせよ、予定のコースPuerto Suarezを選択する。 うまく行って15-16時間、へたをすれば途中一泊。 水、食料などを確保しての出発となる。  後は、神頼み。

2009年3月28日土曜日

アンデスの山々ともお別れ

2500MのCochabambaから400MのSanta Cruzへ。 通常の新道が土砂崩れで不通故、やむなく旧道を走る事にした。 いろいろな人に聞いても情報がマチマチ。 ある人は、8時間と言い、別な人は10時間という。 結局、510kmの旧道を12時間かけて到着。  途中、昼食に40分と給油の他15分ぐらい寝た。 これまで、最悪の条件であった。 舗装は三分の一ぐらいで、後は雨の泥んこ道。初めて 4輪駆動の出番となった。 Amboro国立公園のお膝元で、車窓からの景色は抜群なるも、穴ぼこ、対向車、落石、道路の崩れ、はては、路上にのさばる牛、等に注意を払わねばならず、ゆっくり見てもいられない。Santa Cruz近郊の街の通過は夜となり、街灯なし、無点灯の自転車、歩行者が狭い車道にひしめく。  さらに、狭い車道の路肩に腰を下ろして談笑している若者グループなど、信じられない光景である。 Boliviaの交通は、とにかく神経を使う。 Centro近くのHotel Las Americasに投宿し、ガレージに泥だらけのForesterを入れた。

2009年3月27日金曜日

La Paz - Cochabamba

La Pazは街全体がUpper & Lower Partに分かれているのだが、感覚的に慣れるまで時間要する。 例えば今朝出がけのガソリンの補給。 Centroにはガソリンスタンドがない。15Lの残量で高速道路へ入り、焦った。 Upper La Pazに行き、2件のガソリンスタンドを見つけるもガソリンないと、店員がそっけない。  益々、焦った。3件目でようやく列を成していたスタンド見つける。 Boliviaには、Aditivadoなく、ガソリンは、一種類のみ。 La Pazからは国道1号と4号を走る。 道路は、良好。 全く、問題ない。 4500Mから2500MのCochabambaに降りると、快調。 気温も上がり、半そでOK. 街道筋で気になることあり。 それは、街道の右左に犬が車道横に座っていること。 まるで誰かが1km毎にそれらの犬を配置しているかのような風景である。  平地で家畜などの傍にいれば家畜の番犬かとも思う。 しかし、険しい山間にも高速で走る車両の脇に座ってこちらを見ている。 民家の近くでもないところで、小雨の寒い中、沢山の犬達がこちらを見ているのは、とても哀れだ。  決して群れを作る訳でもなく、等間隔と言っても良いぐらいの距離で孤独に並んでいる。 一応、一匹づつのテリトリーがあるのか知らん。 どうしても、誰かに聞いて帰らないと気が済みそうにない。 1000m下がっただけで体調が違う。 Cochabambaは、La Pazと違い落ち着いた町並みを見せている。 La Pazのようなキチガイ運転手、キチガイ歩行者が少ない。 白人の割合も多い。 車も大体いつもの馬力に戻った。 久しぶりにビールも飲んだ。 やっぱし、低地はラクやー。

最後の国Bolivia

4000M前後の標高というのは、我々平地民族に取ってやはり尋常ならざる環境。 助手が3日間軽い頭痛と一度は吐き気に見舞われた様子。 当方は、頭痛とまでいかないが、ベッドに入ってから中々熟睡出来ない。 ひょっ中覚醒し、色々な夢(国境での車持ち込みの手続き、街道での警官とのやりとりとかクダラナイもの)を見たり、少し息苦しさを感じたり。 そう言えば、最近車の追い越し時、「ウッ、こんなものではなかったはず」と。 つまり、ダッシュの加速がイマイチ。 これも多分に酸素の濃度と関係しているのではと推察される。 Punoを後にBoliviaとの国境を目指す。 この区間は非常に農業に適していると思われる。 見事な作物の栽培地帯が延々Boliviaの国境まで続く。 チチカカ湖がもたらす恵み。 国境は、Desagudero経由とSakani経由がある。 途中、Juliと言う町で会った人が景色が素晴らしいと勧められSakani経由とした。 こちらは、チチカカ湖の狭い部分を渡し舟で車一台づつ運んで貰う。15分ぐらい。 船頭と手伝い計3人が乗船しており、料金900円。Copacapanaと言う街で昼食。ほとんど、チチカカの周囲を回る感じで330km走り、18時過ぎLa Paz到着。 ラッシュ時でこれが大変な混雑。 一言で言うと、車の通り道と人の通り道の区別無し。車の列の間を利用して人が平行して歩いており、さらにその列をクロスするように挑戦する人達もいる。  Limaもひどかったが、ここLa Pazには負けよう。 Centroに中々行き着けず投宿出来たのは、20時。 急斜面に作られたような街で、斜面全体に広がる明かりが、Rioのファべラ、Rossinhaの夜を思い出させる。 La Paz日本人会の建物にあるレストラン「Kenchan」でカツ丼。 胃袋が歓喜していた。 La Paz郊外で残雪を確認。

2009年3月26日木曜日

チチカカ湖に生活の原点を見る

朝6時半、ホテルを出てチチカカ湖のツアーに出掛ける。一日コースで有名な浮上している島Urosと36在る自然の島のひとつTaquile島を訪れた。 面積8600平方キロは、南米第二の大きさ。 標高3810M. 一番長い距離で165km、幅60km。 Bolivia領と2分されている。思っていたよりも、美しい。 昨晩の猛烈な雨も止み、快晴の中素晴らしい湖上であった。 有名な人口の島、Floating Islandへ。この人口の島では、現在330家族、約1500人が住んでいる。 このような島がいくつもある。 トトラという湖面を覆うように自生している葦を2Mも重ねて作る。30-40年毎に作り変えるらしい。 風で流されぬよう、石の錘を湖底に沈めているのだと。 流れ込む5本の河川がこの湖の源泉で、チチカカから流れ出る河川は、1本のみ。 従って、水量はかなり豊富で魚資源も多い。 しかし、何故わざわざ湖上になど家を構え住まねばならぬのか。紀元前5000年前、彼らの原住民アイマラ族が、500年前スペイン人の迫害に会った時、Peru、Boliviaなどの鉱山へ労働力として送られることから一部のIndioが逃れようと湖上の生活を始めたのが起源らしい。  現在の人人は、その子孫と言うことになる。 もう一つの島、Taquileは、2500人ほどの島。段々畑が非常に美しい。  よくもここまでと狭い土地を利用していろいろな耕作物を作り、家畜を飼って自給している。 Punoでは、アイマラ語、ケチュア語、スペイン語が使用されているが、このTaquile島では、Incaのケチュア語が主流で、社会的秩序が長老的システムで見事に保たれているらしい。 島の約束事は、全てこの長老達が司っている。  もちろん選挙などない。 うそをつかない、騙さない、威張らない、の3原則があるという。 段々畑を年寄りが精魂込めて生活のためにキツイ労働を淡々としている風景に我々の生活の原点を見る思いであった。  それにしても、湖面の色、回りの風景、静けさ、家畜の鳴き声、そよかぜ、何故か誰でも詩人にしてしまうような時を過ごした。

2009年3月24日火曜日

Arequipa からPunoへ

今回の旅行の準備の中で、頭に浮かぶ未知なる不安はいろいろあった。 その中でも今日の走行区間は、あまり気の進まない部分と考えていた。 なんと言っても、地図で眺める限り5800M級の山々の間を走ることになるからである。 しかし、またもや取り越し苦労であった。 2300MのArequipaから1500Mぐらい上った所が台形のような形をしており、何と3500-4200Mの超高原地帯を大平原のようにかなりの直線距離で走れたのだ。  一番高いところで4820Mあった。 運転中は感じないが、外に出て写真などのために歩くと若干息が苦しくなるぐらい。 話に聞いていた高山病らしき病状はなし。 車で徐々に這い上がって来た性であろうか。 その台形の中をアルパカやビクーニャ、羊と言った家畜が広々とした高原地帯に放牧されている風景を見ながら330km走る。 途中、Yuraという小さな村で温泉に浸かった。 この温泉は、目に良いのだと。 村人が4つの共同湯船に15人ぐらい。 突然のサムライの登場で、一瞬彼らの和やかな会話が途絶えたのをシッカリと感知。 5分も発たない内にすっかり打ち解ける。  しかし、ぬるい湯であった。 水泳パンツ(メチャデカ)借り賃込み、180円。 この村の温泉に日本人が訪れることは、今世紀は、もうないであろう。 昼食に寄った食堂が El Imperial. 海抜4200Mと行きつけらしいトラックの運ちゃんが教えてくれた。 富士山より500M高いところで取った食事は、絶品のスープ2人前、虹鱒1人前(おおぶりが3尾)を頼んだが珍しく助手が 食べきれず。 コーラ含め合計480円の散財。 Peru人はスープを本当に良く飲む。また彼らの大食いには呆れるばかり。  仕事のようにチャッチャカ、チャッチャカ、口に放り込む。 従って、体系もずんぐり、むっくり。 夢にまで見た、チチカカ湖を前に興奮気味。  明日は、いよいよ湖畔めぐりとなる。

2009年3月23日月曜日

白い街Arequipaの終焉

一夜明けてゆっくりした朝食の後、中央広場に出掛ける。 外国人の観光客が本当に多い。 20年前の記憶を辿るがかなりおぼろげで、はっきりしない。 ただ、街全体、あの真っ白な印象とはかなり違って来ており、排気ガスの性でくすんでいるのが残念。 Sillerという火山石で出来ていると。 当時、レンタカーを借りて郊外へでるも、いとも簡単にCentroを脱出出来た。  今回は、Centroまでかなり走ってようやく行き着く。 ツーリストオフイスを尋ね、徒歩で3時間ぐらい主に教会を中心に見て回る。  教会に入ると、広い内部の中央部分の祭壇はもとより、左右の複数の祭壇に数人の信者がじっと像を見つめたり、頭を垂れて、何分も不動の姿勢を保っている光景を目にする。 仏教であれば、手を合わせたり念仏を唱えたりしているものであるが、中には、明かに仕事の合間に寄ったという風情の中年男が何人もいて、表情から何か悔いているような、反省しているような、誰かに許しを請うているような、そんな後ろ姿を感じるのは信仰心に浅い異教徒のげすの勘ぐりであろうか。  一方、若い女性が一心に祭壇に向かって直視しているのを見ると、何か清楚で、清々しく、あくまで純粋な彼女の心がこちらまで伝わって来るような、こんなヒトを嫁さんにすれば、絶対間違いないのではないか、とさえ思えて来る。  何れにせよ、キリスト様から見れば、いささか不謹慎な話で、これを書きながらもそんな浅はかなことしか感じない自分を深く反省している。 また、Peruの純粋犬、ベリンゴに会った。 オバマ大統領の愛犬でもあるという。

今日で太平洋とお別れ

San Juanから300kmほど海岸に沿って走り、太平洋に別れを。 朝、港に行って見た。夜の10時に出た漁船が帰港し、魚を早速商いしている。 魚がやはり年々少なくなっているのだと。 回りの人々に好奇な目で散々見られた。 少し慣れてくると皆から質問の砲火。 気さくな連中ばかりだ。 朝ごはんの芋を貰う。 芋の本場だけに、これがうまい。 San JuanのHotel Imperialは、一泊1800円で朝食なし。丁度いい按配であった。 海岸線を離れる少し前、Tanakaという村を見つけた。 好奇心に勝てなくPanamericana街道を少し離れ、海辺の一軒を尋ねる。 Tanakaの名前の由来をどうしても知りたかった。 夏場の観光シーズンに部屋を貸しているという青年が一人で新聞を読んでいた。 旅の者だがTanakaの由来を教えてくれと。 親切な青年曰く、「昔々、この海岸に一人の軍人が溺れ死んでこの浜に流れ着いた。 彼の首飾りにTanakaと名前が書かれていた。 それからこの浜をTanakaと呼び始めたらしい」と。 もう少し、平和な由来を期待していたが、まあ一応納得して又ハンドルを握り始めた。 海岸線から更に290km内陸に向かい20年前家族4人に来たことのあるArequipaに着く。 Peruで2番目の都市とガイドにあるが本当か。 白い都市と言われる通り、街全体が白い石で作られ、これまでの街より更に歴史の深さが感じられる。 大体どんな街にもPlaza de Armasと言う中央広場があり、ここがCentroということになる。 街へ着くとひとまずCentro. それからホテルの情報をTaxistaから収集する。 こうしてホテルを探す内、大体の街の感じを掴むことが出来る。 従って、決して焦らず、ゆっくり探す事にしている。 

2009年3月21日土曜日

Peru警察のこと

Limaを朝離れ南下開始。 基幹道路専門の警察がいたるところで
検問しており、当方もPeruだけで恐らく10回以上は、止められている。今では、ほとんど彼らとのやり取りが旅の楽しみの一部となってしまった。 当方の意に反し、一年間の車両保険に加入させれれてからは、さらにこちらの応対にも余裕が出て来たため、尚更強気。 保険に入ってからというもの、誰もその件を取り沙汰してくれないのが淋しい。 Limaの出掛けに、後部についていたパトカーから停止を求められた。一見中堅といった警官で「Peruでは外部から見えない色のガラスの使用は、特別な許可がいる。 その許可証を見せろ」と。 当方、そのような認識なく国境でもPeru側の人から何も指摘なかったし、まず、国境で説明すべき、と。 相手側も譲る気配見せず、車没収となるがどうする、と聞かれる。 当方、開き直って、「どうするも、こうするも(こんな風にスペイン語で表現できたか?)Peruの法律に従うしかないだろう」と。 朝のラッシュ時、彼らがこの車をどうやって持って行こうと言うのか。 意外なJapponesの開き直りに、多少のお小遣いをせびって無罪放免を考えていたであろうLima警察のお二人、イマイマしそうに舌打ちして、行ってよろしい、と全てのDucumentsを返して呉れた。 権威主義的なところあるが、しかし、中にはまじな人も勿論いる。 料金所には、必ず検問の警官が数人張り付いている。 今夜は、ナスカを通り過ぎ、名も知らぬSan Juanという街に着いた。 ただ地図を眺めて指差しただけの理由。  意に反し、地の果てのような場所。 風がむちゃくちゃ強く、砂嵐の中着いた。 近づく街を遠くから眺め、来るんじゃなかったと。 助手からまた一言余計な事を言われそう。

砂漠の顔

Limaに戻って来た。 Lima以北は比較的直線的な道路の連続で非常に運転が楽。 その分、砂漠の景色を堪能する余裕が出る。 良く観察すると、砂漠ににもいろいろな顔がある。 向こうに見える一面の砂地でも色が微妙に変化している。 それが山全体をいろいろなトーンの砂地でカバーしている。しかも、こちらがハイスピードで動いているため、その変化する風景に息を呑む場面もある。 いちいち車を止めて、しっかりした写真撮りたいが、いざとなるとめんどくさい。 助手はといえば、猫みたいに一日中寝ているのであまり期待できない。 結論的に、かなりの長時間砂漠の風景に接していても、全く飽きが来ない。 途中の小さな海岸沿いの村、Huarmeyで昼食。Peruは結構スープを好んで飲む。 味付けは全体にうす味。 第一、塩があまりテーブルにない。  塩を頼むと、ボーイが小皿に入れて適量をスプーンをつけて持ってくる。  従って、時間も掛かる。 野菜サラダを頼んでは、塩を別途頼む。 スープは、どれを頼んでも美味しくボリュームたっぷり。 夜はこのホテルNew Corpac Hotelが経営する富士へ。 久しぶりの刺身定食にてんぷら定食。 ヤッパリ味噌汁が薄味。 ちょっと、物足りない。 しかし、大満足。 4800円。

2009年3月19日木曜日

Chimbote & Manco Inca

Peruに戻って来て二日目。Piuraからチンボテ着。 あそこは治安良くないと色々な人から聞いた。 しかし、時間的に宿泊地はここしか適当な町はない。 途中の検問でも警官から「ホテルは警察署の近くにするように」とのお達し。 確かに男の目つきが何となく皆鋭い。 特にタクシーの運ちゃんが推薦するChimbote一番のホテルCantonのManagerらしき男が一番悪そうな感じ。 名前の通り、オーナーは中国人。 また、砂漠のような土地を600kmぐらい走った。 途中今回3回目のパンク。 これで、Chile, Equador,Peruとそれぞれ一回づつ。 しかし、それ以外は、実に快適。 自転車やリアカーを引いて世界を回っている人達に比べ、当方エアコンの効いた車内で、クンビアの軽快な音楽を聴き、助手が思い出したように給餌してくれる酢昆布を口に、右足をペダルに乗っけているだけでSao PauloからGuayaquilまで行って、強烈な腹下しまでしてしまった。 これが天国でなくて何だ。 もう帰るの止めようかナ。 Chimboteには、膨大な数の漁船が停泊している。  今夜は、思いっきり新鮮なCeviche をと腹の調子を回復した助手と四股を踏んでレストランへ行くと、魚介類ないと。肉ならあると。 納得行かず、栓を抜いたビールにも手をつけず出た。 その向かいのレストランの名前が何と El Ceviche。 念のためCervicheは、あるだろうな、と聞くと客の誰もいない手持ちぶたさのボーイが、魚ないと。 結局ホテル内の中華。  聞くと、今は漁期じゃない、とケラケラ笑っていた。 今いち納得行かない。 納得いかない事、もう一つ。 街でNo.1のホテルなら、寝室とトイレの仕切りドアーの上30cmばかり開いておるが、あれは、どのような意味があるのか。 お陰で、中にいる助手の一挙一動が手に取る以上に判る。 それからこの街の途中にあった村の名前がManco Inca。  それでは、チンボテにて、お休みなさい。

2009年3月18日水曜日

Peruへ再入国

Vilcabambaのホテルは、Tierra Madreと言う原始林のど真ん中にあ  るSpaを兼ねたもの。 その性か、内部の装飾もこれ以上置けないぐらいのItemsを飾りまくっている。 女性好みという事か。 今日は、VilcabambaからLoja-Catamayo-Vela Cruz-Macaraを経て、Peruにまた戻った。 Ecuador-Peruの国境は、行きに通過した海岸沿いのHuaquillaとは打って変わって静かな山間の橋を境としている。 のんびりしており、日本のパスポートを珍しそうに見入っていた。 車の持ち込み書類を作成するのに3人の税関職員が集まり、2枚書き方を誤り、3枚目でようやく出来上がり。 3人の顔には達成感さえ漂わせていた。 国境まで200km、ペルーに入ってからは平坦な土地でPiuraまでやはり200km、合計400km。 Equadorの緑からもうすでに砂っぽい風景に変わりつつあり。 Equadorの幹線道路では警察の検問が非常に少ないが、Peruに入ると俄然また多くなる。 宿泊のHotelは、Costa del Sol. 真向かいの中華で昼食を兼ねた夕食。 三品で9ドル。

2009年3月17日火曜日

世界3大長寿の村 Vilcabamba着

Cuencaを後にLojaに向かう。 Equadorの内陸に入るに従い、道路の状況を心配していたが、穴ぼこは沢山あるものの、現在整備中で恐らく来年あたり、完璧な状況になろう。 Cuencaは、海抜2550Mの高地であった。 ここに着く途中も高地が続いたが、大いにPeruとの違がはっきりしている。 Equadorの方は、同じ高地でも、森林など緑が豊富なため、路肩のそばまで木々があったり、緑で眼下が遮られていたり、心理上ではあるが、あまり不安感ない。  一方、Peru の方は、砂漠の山脈がストーンと1000M太平洋に落ちているため、路肩からもろに遥か下方を足元から見渡せる感じ。 スリル満点。
Equadorの緑は、実に美しい。 ここVilcabambaは、長寿で世界的に知られた村。 中心の広場へ行って、外国人の多さにまず驚かされる。 長寿の秘密は何か。  まず興味しんしんで着いたものだが、はたして老人どころか目に付くのは、英語やフランス語を話している外人とそれを相手に商売している現地の人間ばっかし。 聞くところ、長寿のブランドに引かれて世界中からそれにあやかりたい人間が家を構えているのだそうだ。 洗車で知り合った建築会社のオーナーの話では、Vilcabambaの経済は、もはやこれらの海外からの移住者でもっているのだと。 緑濃い山間に散在する瀟洒な建物はみるからにゴージャスで、憧れをそそるには、充分な風景である。  文句なしにきれいだ。 公園で一人のお爺さんがいた。  早速、近づき長寿の秘密を。 年齢88歳で奥さんとの二人暮し。 子供7人は田舎を離れて暮らしている。 子供の話ばかりで中々核心のテーマへの回答出て来ない。 自分は小さい時から随分働いたと。 食べ物は、肉も含め何でも食べると。 勿論ここの水は良いと。 昔は静かだったが、最近は随分人が増えてダメになったと。 結局、現地調査までして、サンパウロに帰って自慢げに話せるような収穫は、ゼロ。 こちらには、Vilcaguaと言う水がある。 秘密はこれに違いないと6本購入。 しかし、自分の親父は早死にだった、という先のお爺さんの話で世界の長寿村までやってきた運転の疲れが一気に。 すれ違いに会う子供や高校生がこちらに挨拶をしてくれる。 実に気持ちが爽やかになる。

2009年3月16日月曜日

CuencaでEquadorの歴史を

ようやく体調がほぼ回復し力も出てきた。 朝、ツーリストOfficeを訪問し、観光の予定を立てる。 11時Parque Centralからツアーバスありと。 10時半に行って待っているもそれらしきバス現れず。 近くにいた物売りのおじいさんに尋ねると「月曜はないの」だと。 本当かの念を押すと、「ワシは、15年もここで売っている。間違いないと。」 従ってガイドを午後の4時間雇う。  車付きで一人20ドル。 Cuencaは、4あ、2万人当国第三番目の都市。 もともとは、カニャレスという先住民族が5000年も前からこの地方を本拠として、15世紀にインカ帝国の支配を受けその80年後に今度はスペイン人の支配となった。 1557年がCuencaの創立。 創立者がスペインのCuenca出身であったため同名となった。 そういえば、当国のいろいろな所にスペインの同名の町が沢山ある。 Peruと異なり、ドライバーのマナーが非常に宜しい。 少なくともBRよりは格段に良い。 Peruは、ムチャクチャとしか形容の使用がなかったので、余計にこちらの良さが感じる。 人々も大変親切で良く働く様子がOffice,レストランなどで感じる。 Panama Hatの工場を訪ねた。 実は、このCuencaからPanamaへ輸出されているのだと。 手編みで熟練者が一日2個作るそうで、中には、3-6ヶ月もかけるものあり。 価格もいろいろだが、30-3000ドルまでピンキリ。 今回、唯一餞別を呉れた人に1個選び、ついでに自分の分も1個。 Cuencaに来て初めて日本食を食べた。 SakuraいうEquador人経営のすし屋。 1カンを2分にしてある。 食べ易いようにか。
ネタは、まあまあなるも、米が8分ぐらいの炊き上がりで今ひとつ。 二人で50ドル。 今夜は、最後のEquador.  Hotelの部屋からは、IluminationされたSanto Domingo教会が、美しく映えている。
 

Equadorの京都、Cuenca着

昨日の腹痛も治まり、ほぼ体調を回復。  日曜日とあって車も少なく、大都市のCentroから地図を頼りに抜け出すには絶好の条件。 13時には、古都Cuenca着。 街中は、人通りすくなく、閑散として町並みを良く観察できる。 Hotel El Conquistadorは、Central広場に近接しており、Restrant,Cafe など多くあり、便利なところ。 お市街と新市街あり、ホテルは、旧市街のど真ん中。 Guayquilでアクセス出来なかったInternetもここは、OK. Internetにアクセス出来ないと一種の禁断症状を呈する。 明日は、一日ここを観光予定でもう一泊する。  途中、この地方の聖地で会った現地のFamilyと話すチャンスあり。 とても平和で穏やかに表情の家族であった。 とくにIndio風なおばあさんの顔がとても良かった。  (どうして、写真の貼り付け出来ないのか不明)

Guayaquilでダウン

14日の明け方からお腹が雷みたいにゴロゴロ鳴り出す。 朝からかって経験したことのない様な強烈な腹痛。 しびれるような痛さ。 昨夜のカニが原因か。 Marioと奥さんのAlesandraがカニのどうがらにトマトと玉ねぎのみじん切りを入れ、脳みそを美味しそうに食べていたのを自分も真似をして食べた。北海道の毛蟹、花咲がになどの味噌は、味噌のみをきれいに選別できるも、泥カニの方は、そうはっきり区別つかなく、これまでも食べて来なかった。 腹痛は、まるで陣痛のように4-5分おき、確実にやって来る。 結局嘔吐するまで続き、14時頃やっとベットを離れた。  土曜のうちにパンクを修理をせねば、明日の日曜日は、難しいのではと言う判断から。 Guayaquilの一日観光は、これでフイになった。 もちろん、3食なし。  助手が、パンクといい下痢といい、13日の金曜日ヨ、と余計な事を言っていた。 Guayaquilは、20年前ぐらいに行ったが、昔の面影全くなし。 医療機器の販売では、この金融危機の影響出ていないと、Marioの話。

2009年3月15日日曜日

赤道直下の国Equador

たまに、写真の貼り付け出来ない事があり。13日、朝Tumbesを遅めに出発。いよいよEquadorへ。Tumbesから国境へは20分ぐらいの距離。 国境の街Zarmillaに着くと、旅行者のImigration. Integrado System取っていないため、Peru Equadorそれぞれで手続きの必要あり。 Peru側標識が不完全でPeru入国側へ車を突っ込む。 出国の方へ着くなり愛想のいい若者があれこれ教えてくれる。 税関の役人でない事は確か。 書類の書き込みをテキパキと指示、いろいろな窓口へ連れってくれる。 その内、今度は、Equador側の世話人らしき男がジョイント、Equador側でもこちらは何もせず。 いくら払えば良いのか、不安になり尋ねると、正規の料金プラスティップと、正確には、言わない。 窓口が煩雑なのに加え、案内標識が不足しており、もう彼らに任せた。 Equador側の車の登録を済ませ、その後旅行者のImigarationをEquadorの国境の町Huaquillaに入って7kmも走ったところで入国のスタンプを貰う。 一人旅の旅行者にとっては、不便この上ない。 入国のスタンプを貰うためわざわざそこまで行く必要あり。 そしてまた、Huaquillaに戻り、他の交通を利用する。 我々の場合は、車があり、内国に進む途中故に問題なかったが。  結局、彼らには、手数料20ドルと40Soles計35ドル払った。 途中、Machalaの海岸で昼食と取る事にして、6kmほど国道をそれる。  市内でパトロール中の警官に止められ、BRでは普通に使用されている車のガラスに貼るアンバーのシールがEquadorでは使用禁止と。 剥がせとの仰せなるも、BRから来た事を告げるとOK,行って宜しいと。 海岸では15軒くらいのレストランがずらりと並び呼び込みの若い女性に囲まれそうになり、知ったふりしてある店に直進。 Equadorでの通貨がUS$とは知らなかった。 てんこ盛りのCevicheが6ドルぐらい。 Guayaquiまでは260km。 途中は、広大なバナナ園を国道の左右に見ながら走る。 Equadorに入ってからの緑は、非常に美しい緑だ。 岩だらけの土地を何日も走って来た目には、新鮮そのもの。 Guayaquilの手前80kmぐらいで大きな穴を避けきcれず、前輪をパンクさせた。 通行量の多い片側1車線で助手を50m先で後続の車に合図させる。 Centroに着いてからコンタクトのあるMarioに電話、ホテルを紹介してもらう。 夜は、自宅に招かれたがこれがまたスゴイ邸宅。 裏庭には湖が続いており、そこから魚を釣るのだと。 カニの専門店へ招待受け、大満足でホテルへ帰る。