2009年3月23日月曜日

白い街Arequipaの終焉

一夜明けてゆっくりした朝食の後、中央広場に出掛ける。 外国人の観光客が本当に多い。 20年前の記憶を辿るがかなりおぼろげで、はっきりしない。 ただ、街全体、あの真っ白な印象とはかなり違って来ており、排気ガスの性でくすんでいるのが残念。 Sillerという火山石で出来ていると。 当時、レンタカーを借りて郊外へでるも、いとも簡単にCentroを脱出出来た。  今回は、Centroまでかなり走ってようやく行き着く。 ツーリストオフイスを尋ね、徒歩で3時間ぐらい主に教会を中心に見て回る。  教会に入ると、広い内部の中央部分の祭壇はもとより、左右の複数の祭壇に数人の信者がじっと像を見つめたり、頭を垂れて、何分も不動の姿勢を保っている光景を目にする。 仏教であれば、手を合わせたり念仏を唱えたりしているものであるが、中には、明かに仕事の合間に寄ったという風情の中年男が何人もいて、表情から何か悔いているような、反省しているような、誰かに許しを請うているような、そんな後ろ姿を感じるのは信仰心に浅い異教徒のげすの勘ぐりであろうか。  一方、若い女性が一心に祭壇に向かって直視しているのを見ると、何か清楚で、清々しく、あくまで純粋な彼女の心がこちらまで伝わって来るような、こんなヒトを嫁さんにすれば、絶対間違いないのではないか、とさえ思えて来る。  何れにせよ、キリスト様から見れば、いささか不謹慎な話で、これを書きながらもそんな浅はかなことしか感じない自分を深く反省している。 また、Peruの純粋犬、ベリンゴに会った。 オバマ大統領の愛犬でもあるという。

今日で太平洋とお別れ

San Juanから300kmほど海岸に沿って走り、太平洋に別れを。 朝、港に行って見た。夜の10時に出た漁船が帰港し、魚を早速商いしている。 魚がやはり年々少なくなっているのだと。 回りの人々に好奇な目で散々見られた。 少し慣れてくると皆から質問の砲火。 気さくな連中ばかりだ。 朝ごはんの芋を貰う。 芋の本場だけに、これがうまい。 San JuanのHotel Imperialは、一泊1800円で朝食なし。丁度いい按配であった。 海岸線を離れる少し前、Tanakaという村を見つけた。 好奇心に勝てなくPanamericana街道を少し離れ、海辺の一軒を尋ねる。 Tanakaの名前の由来をどうしても知りたかった。 夏場の観光シーズンに部屋を貸しているという青年が一人で新聞を読んでいた。 旅の者だがTanakaの由来を教えてくれと。 親切な青年曰く、「昔々、この海岸に一人の軍人が溺れ死んでこの浜に流れ着いた。 彼の首飾りにTanakaと名前が書かれていた。 それからこの浜をTanakaと呼び始めたらしい」と。 もう少し、平和な由来を期待していたが、まあ一応納得して又ハンドルを握り始めた。 海岸線から更に290km内陸に向かい20年前家族4人に来たことのあるArequipaに着く。 Peruで2番目の都市とガイドにあるが本当か。 白い都市と言われる通り、街全体が白い石で作られ、これまでの街より更に歴史の深さが感じられる。 大体どんな街にもPlaza de Armasと言う中央広場があり、ここがCentroということになる。 街へ着くとひとまずCentro. それからホテルの情報をTaxistaから収集する。 こうしてホテルを探す内、大体の街の感じを掴むことが出来る。 従って、決して焦らず、ゆっくり探す事にしている。 

2009年3月21日土曜日

Peru警察のこと

Limaを朝離れ南下開始。 基幹道路専門の警察がいたるところで
検問しており、当方もPeruだけで恐らく10回以上は、止められている。今では、ほとんど彼らとのやり取りが旅の楽しみの一部となってしまった。 当方の意に反し、一年間の車両保険に加入させれれてからは、さらにこちらの応対にも余裕が出て来たため、尚更強気。 保険に入ってからというもの、誰もその件を取り沙汰してくれないのが淋しい。 Limaの出掛けに、後部についていたパトカーから停止を求められた。一見中堅といった警官で「Peruでは外部から見えない色のガラスの使用は、特別な許可がいる。 その許可証を見せろ」と。 当方、そのような認識なく国境でもPeru側の人から何も指摘なかったし、まず、国境で説明すべき、と。 相手側も譲る気配見せず、車没収となるがどうする、と聞かれる。 当方、開き直って、「どうするも、こうするも(こんな風にスペイン語で表現できたか?)Peruの法律に従うしかないだろう」と。 朝のラッシュ時、彼らがこの車をどうやって持って行こうと言うのか。 意外なJapponesの開き直りに、多少のお小遣いをせびって無罪放免を考えていたであろうLima警察のお二人、イマイマしそうに舌打ちして、行ってよろしい、と全てのDucumentsを返して呉れた。 権威主義的なところあるが、しかし、中にはまじな人も勿論いる。 料金所には、必ず検問の警官が数人張り付いている。 今夜は、ナスカを通り過ぎ、名も知らぬSan Juanという街に着いた。 ただ地図を眺めて指差しただけの理由。  意に反し、地の果てのような場所。 風がむちゃくちゃ強く、砂嵐の中着いた。 近づく街を遠くから眺め、来るんじゃなかったと。 助手からまた一言余計な事を言われそう。

砂漠の顔

Limaに戻って来た。 Lima以北は比較的直線的な道路の連続で非常に運転が楽。 その分、砂漠の景色を堪能する余裕が出る。 良く観察すると、砂漠ににもいろいろな顔がある。 向こうに見える一面の砂地でも色が微妙に変化している。 それが山全体をいろいろなトーンの砂地でカバーしている。しかも、こちらがハイスピードで動いているため、その変化する風景に息を呑む場面もある。 いちいち車を止めて、しっかりした写真撮りたいが、いざとなるとめんどくさい。 助手はといえば、猫みたいに一日中寝ているのであまり期待できない。 結論的に、かなりの長時間砂漠の風景に接していても、全く飽きが来ない。 途中の小さな海岸沿いの村、Huarmeyで昼食。Peruは結構スープを好んで飲む。 味付けは全体にうす味。 第一、塩があまりテーブルにない。  塩を頼むと、ボーイが小皿に入れて適量をスプーンをつけて持ってくる。  従って、時間も掛かる。 野菜サラダを頼んでは、塩を別途頼む。 スープは、どれを頼んでも美味しくボリュームたっぷり。 夜はこのホテルNew Corpac Hotelが経営する富士へ。 久しぶりの刺身定食にてんぷら定食。 ヤッパリ味噌汁が薄味。 ちょっと、物足りない。 しかし、大満足。 4800円。

2009年3月19日木曜日

Chimbote & Manco Inca

Peruに戻って来て二日目。Piuraからチンボテ着。 あそこは治安良くないと色々な人から聞いた。 しかし、時間的に宿泊地はここしか適当な町はない。 途中の検問でも警官から「ホテルは警察署の近くにするように」とのお達し。 確かに男の目つきが何となく皆鋭い。 特にタクシーの運ちゃんが推薦するChimbote一番のホテルCantonのManagerらしき男が一番悪そうな感じ。 名前の通り、オーナーは中国人。 また、砂漠のような土地を600kmぐらい走った。 途中今回3回目のパンク。 これで、Chile, Equador,Peruとそれぞれ一回づつ。 しかし、それ以外は、実に快適。 自転車やリアカーを引いて世界を回っている人達に比べ、当方エアコンの効いた車内で、クンビアの軽快な音楽を聴き、助手が思い出したように給餌してくれる酢昆布を口に、右足をペダルに乗っけているだけでSao PauloからGuayaquilまで行って、強烈な腹下しまでしてしまった。 これが天国でなくて何だ。 もう帰るの止めようかナ。 Chimboteには、膨大な数の漁船が停泊している。  今夜は、思いっきり新鮮なCeviche をと腹の調子を回復した助手と四股を踏んでレストランへ行くと、魚介類ないと。肉ならあると。 納得行かず、栓を抜いたビールにも手をつけず出た。 その向かいのレストランの名前が何と El Ceviche。 念のためCervicheは、あるだろうな、と聞くと客の誰もいない手持ちぶたさのボーイが、魚ないと。 結局ホテル内の中華。  聞くと、今は漁期じゃない、とケラケラ笑っていた。 今いち納得行かない。 納得いかない事、もう一つ。 街でNo.1のホテルなら、寝室とトイレの仕切りドアーの上30cmばかり開いておるが、あれは、どのような意味があるのか。 お陰で、中にいる助手の一挙一動が手に取る以上に判る。 それからこの街の途中にあった村の名前がManco Inca。  それでは、チンボテにて、お休みなさい。

2009年3月18日水曜日

Peruへ再入国

Vilcabambaのホテルは、Tierra Madreと言う原始林のど真ん中にあ  るSpaを兼ねたもの。 その性か、内部の装飾もこれ以上置けないぐらいのItemsを飾りまくっている。 女性好みという事か。 今日は、VilcabambaからLoja-Catamayo-Vela Cruz-Macaraを経て、Peruにまた戻った。 Ecuador-Peruの国境は、行きに通過した海岸沿いのHuaquillaとは打って変わって静かな山間の橋を境としている。 のんびりしており、日本のパスポートを珍しそうに見入っていた。 車の持ち込み書類を作成するのに3人の税関職員が集まり、2枚書き方を誤り、3枚目でようやく出来上がり。 3人の顔には達成感さえ漂わせていた。 国境まで200km、ペルーに入ってからは平坦な土地でPiuraまでやはり200km、合計400km。 Equadorの緑からもうすでに砂っぽい風景に変わりつつあり。 Equadorの幹線道路では警察の検問が非常に少ないが、Peruに入ると俄然また多くなる。 宿泊のHotelは、Costa del Sol. 真向かいの中華で昼食を兼ねた夕食。 三品で9ドル。

2009年3月17日火曜日

世界3大長寿の村 Vilcabamba着

Cuencaを後にLojaに向かう。 Equadorの内陸に入るに従い、道路の状況を心配していたが、穴ぼこは沢山あるものの、現在整備中で恐らく来年あたり、完璧な状況になろう。 Cuencaは、海抜2550Mの高地であった。 ここに着く途中も高地が続いたが、大いにPeruとの違がはっきりしている。 Equadorの方は、同じ高地でも、森林など緑が豊富なため、路肩のそばまで木々があったり、緑で眼下が遮られていたり、心理上ではあるが、あまり不安感ない。  一方、Peru の方は、砂漠の山脈がストーンと1000M太平洋に落ちているため、路肩からもろに遥か下方を足元から見渡せる感じ。 スリル満点。
Equadorの緑は、実に美しい。 ここVilcabambaは、長寿で世界的に知られた村。 中心の広場へ行って、外国人の多さにまず驚かされる。 長寿の秘密は何か。  まず興味しんしんで着いたものだが、はたして老人どころか目に付くのは、英語やフランス語を話している外人とそれを相手に商売している現地の人間ばっかし。 聞くところ、長寿のブランドに引かれて世界中からそれにあやかりたい人間が家を構えているのだそうだ。 洗車で知り合った建築会社のオーナーの話では、Vilcabambaの経済は、もはやこれらの海外からの移住者でもっているのだと。 緑濃い山間に散在する瀟洒な建物はみるからにゴージャスで、憧れをそそるには、充分な風景である。  文句なしにきれいだ。 公園で一人のお爺さんがいた。  早速、近づき長寿の秘密を。 年齢88歳で奥さんとの二人暮し。 子供7人は田舎を離れて暮らしている。 子供の話ばかりで中々核心のテーマへの回答出て来ない。 自分は小さい時から随分働いたと。 食べ物は、肉も含め何でも食べると。 勿論ここの水は良いと。 昔は静かだったが、最近は随分人が増えてダメになったと。 結局、現地調査までして、サンパウロに帰って自慢げに話せるような収穫は、ゼロ。 こちらには、Vilcaguaと言う水がある。 秘密はこれに違いないと6本購入。 しかし、自分の親父は早死にだった、という先のお爺さんの話で世界の長寿村までやってきた運転の疲れが一気に。 すれ違いに会う子供や高校生がこちらに挨拶をしてくれる。 実に気持ちが爽やかになる。

2009年3月16日月曜日

CuencaでEquadorの歴史を

ようやく体調がほぼ回復し力も出てきた。 朝、ツーリストOfficeを訪問し、観光の予定を立てる。 11時Parque Centralからツアーバスありと。 10時半に行って待っているもそれらしきバス現れず。 近くにいた物売りのおじいさんに尋ねると「月曜はないの」だと。 本当かの念を押すと、「ワシは、15年もここで売っている。間違いないと。」 従ってガイドを午後の4時間雇う。  車付きで一人20ドル。 Cuencaは、4あ、2万人当国第三番目の都市。 もともとは、カニャレスという先住民族が5000年も前からこの地方を本拠として、15世紀にインカ帝国の支配を受けその80年後に今度はスペイン人の支配となった。 1557年がCuencaの創立。 創立者がスペインのCuenca出身であったため同名となった。 そういえば、当国のいろいろな所にスペインの同名の町が沢山ある。 Peruと異なり、ドライバーのマナーが非常に宜しい。 少なくともBRよりは格段に良い。 Peruは、ムチャクチャとしか形容の使用がなかったので、余計にこちらの良さが感じる。 人々も大変親切で良く働く様子がOffice,レストランなどで感じる。 Panama Hatの工場を訪ねた。 実は、このCuencaからPanamaへ輸出されているのだと。 手編みで熟練者が一日2個作るそうで、中には、3-6ヶ月もかけるものあり。 価格もいろいろだが、30-3000ドルまでピンキリ。 今回、唯一餞別を呉れた人に1個選び、ついでに自分の分も1個。 Cuencaに来て初めて日本食を食べた。 SakuraいうEquador人経営のすし屋。 1カンを2分にしてある。 食べ易いようにか。
ネタは、まあまあなるも、米が8分ぐらいの炊き上がりで今ひとつ。 二人で50ドル。 今夜は、最後のEquador.  Hotelの部屋からは、IluminationされたSanto Domingo教会が、美しく映えている。
 

Equadorの京都、Cuenca着

昨日の腹痛も治まり、ほぼ体調を回復。  日曜日とあって車も少なく、大都市のCentroから地図を頼りに抜け出すには絶好の条件。 13時には、古都Cuenca着。 街中は、人通りすくなく、閑散として町並みを良く観察できる。 Hotel El Conquistadorは、Central広場に近接しており、Restrant,Cafe など多くあり、便利なところ。 お市街と新市街あり、ホテルは、旧市街のど真ん中。 Guayquilでアクセス出来なかったInternetもここは、OK. Internetにアクセス出来ないと一種の禁断症状を呈する。 明日は、一日ここを観光予定でもう一泊する。  途中、この地方の聖地で会った現地のFamilyと話すチャンスあり。 とても平和で穏やかに表情の家族であった。 とくにIndio風なおばあさんの顔がとても良かった。  (どうして、写真の貼り付け出来ないのか不明)

Guayaquilでダウン

14日の明け方からお腹が雷みたいにゴロゴロ鳴り出す。 朝からかって経験したことのない様な強烈な腹痛。 しびれるような痛さ。 昨夜のカニが原因か。 Marioと奥さんのAlesandraがカニのどうがらにトマトと玉ねぎのみじん切りを入れ、脳みそを美味しそうに食べていたのを自分も真似をして食べた。北海道の毛蟹、花咲がになどの味噌は、味噌のみをきれいに選別できるも、泥カニの方は、そうはっきり区別つかなく、これまでも食べて来なかった。 腹痛は、まるで陣痛のように4-5分おき、確実にやって来る。 結局嘔吐するまで続き、14時頃やっとベットを離れた。  土曜のうちにパンクを修理をせねば、明日の日曜日は、難しいのではと言う判断から。 Guayaquilの一日観光は、これでフイになった。 もちろん、3食なし。  助手が、パンクといい下痢といい、13日の金曜日ヨ、と余計な事を言っていた。 Guayaquilは、20年前ぐらいに行ったが、昔の面影全くなし。 医療機器の販売では、この金融危機の影響出ていないと、Marioの話。

2009年3月15日日曜日

赤道直下の国Equador

たまに、写真の貼り付け出来ない事があり。13日、朝Tumbesを遅めに出発。いよいよEquadorへ。Tumbesから国境へは20分ぐらいの距離。 国境の街Zarmillaに着くと、旅行者のImigration. Integrado System取っていないため、Peru Equadorそれぞれで手続きの必要あり。 Peru側標識が不完全でPeru入国側へ車を突っ込む。 出国の方へ着くなり愛想のいい若者があれこれ教えてくれる。 税関の役人でない事は確か。 書類の書き込みをテキパキと指示、いろいろな窓口へ連れってくれる。 その内、今度は、Equador側の世話人らしき男がジョイント、Equador側でもこちらは何もせず。 いくら払えば良いのか、不安になり尋ねると、正規の料金プラスティップと、正確には、言わない。 窓口が煩雑なのに加え、案内標識が不足しており、もう彼らに任せた。 Equador側の車の登録を済ませ、その後旅行者のImigarationをEquadorの国境の町Huaquillaに入って7kmも走ったところで入国のスタンプを貰う。 一人旅の旅行者にとっては、不便この上ない。 入国のスタンプを貰うためわざわざそこまで行く必要あり。 そしてまた、Huaquillaに戻り、他の交通を利用する。 我々の場合は、車があり、内国に進む途中故に問題なかったが。  結局、彼らには、手数料20ドルと40Soles計35ドル払った。 途中、Machalaの海岸で昼食と取る事にして、6kmほど国道をそれる。  市内でパトロール中の警官に止められ、BRでは普通に使用されている車のガラスに貼るアンバーのシールがEquadorでは使用禁止と。 剥がせとの仰せなるも、BRから来た事を告げるとOK,行って宜しいと。 海岸では15軒くらいのレストランがずらりと並び呼び込みの若い女性に囲まれそうになり、知ったふりしてある店に直進。 Equadorでの通貨がUS$とは知らなかった。 てんこ盛りのCevicheが6ドルぐらい。 Guayaquiまでは260km。 途中は、広大なバナナ園を国道の左右に見ながら走る。 Equadorに入ってからの緑は、非常に美しい緑だ。 岩だらけの土地を何日も走って来た目には、新鮮そのもの。 Guayaquilの手前80kmぐらいで大きな穴を避けきcれず、前輪をパンクさせた。 通行量の多い片側1車線で助手を50m先で後続の車に合図させる。 Centroに着いてからコンタクトのあるMarioに電話、ホテルを紹介してもらう。 夜は、自宅に招かれたがこれがまたスゴイ邸宅。 裏庭には湖が続いており、そこから魚を釣るのだと。 カニの専門店へ招待受け、大満足でホテルへ帰る。

2009年3月13日金曜日

禿山がちりちり毛に

一国の領土と言うのは、必ずしも地図で見る広さに比例する訳ではない、との認識を新たにした。 と言うのも、チリのSantiagoを出て北上を続けて来たが一貫して不毛の土地の連続。  緑があるのは、河川が通っている地帯のみ。いかにブラジルの土地が恵まれているものか実感する。 今日になって、初めて山肌に緑らしきものが覆い始めて来た。 750kmぐらい走った。 途中、昼食のためある村に立ち寄った。 Centroまで行き、村人の注目を一心に浴びて、レスランを探す。 4件ほどある中のBestという所に行き、一瞬後ずさりしそうになった。 すぐ左手が2平米ぐらいの厨房。 そこで、煮炊きをしているオバハンと手伝いの娘。 取り敢えずテーブルへ。 直ぐ、学校帰りの次女と三女が我々と同じテーブルに付き、お昼ごはん。 なんとも微笑ましいがスゴイ食欲。 言われるままのご飯を食べ、二人で1リットルのペプシコーラ付き380円。
添付の写真はエアーを入れているところ。 恐ろしく長いチューブがぶら下がっている。 Ecuadorとの国境の街、Tumbes着。  国境まで車で20分という。 小さな街では、「この街で一番良いホテルはどこか」と強気で聞ける。 何故なら、それでも4000円ぐらい。 それも朝食付き。

2009年3月12日木曜日

Peruでの安全走行のため

Lima-Trujillo間で3回の検問にあった。 意を決してここTrujilloでMapfre社事務所を探し、Soatと言われる強制保険に入る。 聞いていたTemporaryのものは、存在しないと、結局一年間有効のものを申し込み65ドル掛かった。 これで、警官の検問にも強気で出られる。 もう、ビタ一文払わない。 ホテルでも、レストランでも、一般にPeru人の接客態度は、非常に良い。 勿論、行動範囲は、限られているものの治安面での不安感は街からは感じられない。 7時間の観光バスに乗る。当方、知識ゼロであったが、3箇所の遺跡巡りをした。 Huaca de la Luna, Chan-Chan, Mochi. 西暦100-400年、800-1000年に栄えていたIndioの文化。 Ecuador国境にかけて、色々な地域に全体で60万人ぐらいの勢力を持っていたと。 泥の構築物が中心で8箇所の宮殿など、現在発掘の真っ最中。 全貌の解明はこれからで、遺跡に興味ある人には、たまらないはず。 スペイン語にも聞く方は、ようやく慣れて来た。 但し、話す方はまだまだポルトガル語が邪魔する。 この街には、Taxiがやたらと多い。 良い雰囲気の街並みにヒステリックなクラクションは、艶消し。 「どうして、そんなに鳴らさにゃいかんの」とTaxiの窓に顔を突っ込みたいぐらい。 ホテルの前のクリーニング屋さん。 Gパン3本Tシャツ4枚で、10Soles(US$3.00)。 本日の夕食、ピスコサワー2杯、ステーキ、スパゲティー、計75Soles.

2009年3月11日水曜日

スペイン風の町Trujillo

首都のリマから北上、Trujilloに着いた。 この路線につても全くの情報なく、随分心配していたが、余計な心配であった。 Arequipaを過ぎてから幸いにもあまり高い山岳地帯を運転しなくて済んでおり、かなり 神経も休まる。 その代り、LimaからPanamerican道路に出るのに随分手間取る。 加えて、Lima朝の車の洪水は、想像を超えるすごいもの。 サンパウロなどまだまだ。 うるさい事に意味をなさないクラクションを鳴らしそれが渋滞のイライラを加速させる。 歩行者もどんどん車の列を潜り抜ける。 しかも、こちらの方など振り向きもせず、渡る。
Trujillo到着まで、3回の検問。 街道筋にやたらと警官の姿が目に付く。 Ar,Chile,Paraguayの保険は、付保出来ているが、Peru,Equadorについては、サンパウロで出来なかった。 3回の検問中。2回協力金を払う。 35kmの制限速度を50kmで走った事と、Peruをカlバーする保険ないため。 協力金を免れたもう件は、BRの保険をInternationalと勘違いしてくれたため。 60ドルと40Soles。 そんなわけで、明日は、この街でTemporaryの保険に入る手続きをする。
出来れば、Equadorの分を含め。  Trujilloは、30年前旅行したスペインのアンダルシア地方の街の雰囲気に似ている。 落ち着いたシックなたたずまい。 騒然としてLimaから来た性か、何か安堵する。

2009年3月10日火曜日

ナスカの火の見やぐら

朝ナスカを出発してリマに向かう。 地上絵を求めて世界中からの観光客で賑わっている。 日本人のグループにも何組か会う。 小型機に乗らないと何のためにナスカに宿泊するのやら。 途中、展望塔あり、一人60円。 助手が20段ぐらい上った所で「もうダメ」と。 心臓がおかしいのだと。 余り、期待していなかったが、助手をおいて上って見ると3箇所の絵を見る事が出来、60円を無駄にさせじと無理やり助手も引き上げる。 途中の手すりや錆びれた鉄の階段を見ると、小型機より怖い。全部で70種類の絵が確認され、BC600年からAC900年ぐらいに作られたもの。 いまだ誰がどのような目的で描いたのか、謎。

Lima到着

ついにリマ到着。リマには、過去15回ぐらいは訪れているが、最近は長い間ご無沙汰。 Miraflores界隈のホテルは、満杯。セントロ方面に向かう途中に偶然目にしたホテルFerruaに投宿。 2400円は、安い。 これまで全て朝食は、込みであったので、イチオウ念のため、Desayunoは込みかと聞くと、2泊したら付けるとの返事。何じゃコレ。
Bedの横の超大型のカガミが気になる。 今日の昼食は、もちろん又Ceviche. 酢とレモン、唐辛子がほどよく利いて、材料のささえ、えび、白身の魚、イか、たこ、その他本当に新鮮なのが歯ざわりで分かる。
えびが本当の海老の味。つまり、BRで食する海老は、海老本来の味がない。 ここのCeviche は、食材本来の味をそのまま楽しませてくれる。 若干、腹の具合良くないという助手も、このCevicheの味と本来の旺盛な食欲には勝てず、結局ただゆっくり食しただけで、量といえば「抑え目に」と言って食べ始めた宣言とは、全く無関係。 約、3%ほど形だけお皿に残す。
2日前、街道筋のレストランで頼んだ料理。 写真のごとく、何かにそっくり。 4本の足と顔の歪み、引きつれ具合、この小動物が受けた苦痛が想像される。 ハシを付けかねていると、助手が「もったいない」、と一言、「たんぱくな味」と。 さらに、「知ったフリして頼むから、コウユー事に」とトドメを刺す。
後で辞書を引っ張り、ヤッパリと。 辞書には、「てんじくネズミ」と。 もちろん、助手には、まだ言っていない。

2009年3月8日日曜日

地上絵のナスカ

地上絵で有名なナスカに着きました。 助手が小型飛行機に乗りそうもないので、諦める。 場所はと言えば、明日Limaに向う道筋にあると言う。しかも、その場所からは、一部なれど見られるらしい。 そこで頑張ってみる。 ここまでの道中は、帰り又通ることになる道筋。 アンデス山脈が直接海に落ち込んでいる場所の道路は、往路と復路で海側と山側に分かれる。 今日往路で山側。 帰りは当然反対側となる。山 側でもあまり左側の断崖絶壁を見ないように走る。 一千メートル以上もある場所になると、手汗を感じる。 本日は、砂丘のような場所にも出くわす。 道路を一本挟んで、右砂丘、左は刈時の水田。このコントラストが大変面白い。 Nazcaは、小さな街。 昼間は、暑いので、夜になると店やレストランが、営業を開始する。  日本の旅行者もかなり多いと。 4月から9月までが、刈り入れ時らしい。飛行機の遊覧料金US$50.00(一人)。  小型機には、乗客2人乗りと5人乗りがある。